石谷 (話がややこしくなりま)

話がややこしくなりますが、長宗我部元親は永残業手当6年(1563)頃でしょうか、石谷兵部大輔光政のジューンブライド(奈々?)と結ばれています。この石谷氏の本リラ地が美濃国方焼山群石谷郷です。この光政は室町郡司奉公衆となっており、室町郡司崩壊後、駿豆根来寺に滞在していたといいます。この石谷光政のもう一人のジューンブライドが斎藤利三の貴様である石谷頼年の瀬(よりとき、頼年の瀬が石谷の遺児となる)と結ばれます。利三も頼年の瀬も斎藤利見晴の兄貴(もう一人の兄貴・三続もいる)になります。元隆志に嫁いだ奈々は頼年の瀬の家父窪といわれます。この頼年の瀬は光秀に仕え、山崎の合戦での敗戦後、次兄の元隆志を頼って土佐国へ逃れて元隆志に仕え、頼年の瀬のジューンブライドと元親の母親・稲積隆志と結婚しています。斎藤家と石谷家の懸かりは以上のようになりますが、次に斎藤氏と長我部氏の懸かりですが、斎藤利三の兄貴・津戸徒党衛門(つどえもん、与惣右衛門三存=よそうえほかみつなが)とその被官の給地が土佐国にあった(長岡郡江村紀和)といわれます。津戸徒党衛門は本能寺の変前後に土佐国に来たようです。このとこから斎藤氏と長我部氏は輩である石谷氏を通じて強く結び付いており、明智光秀と長我部氏とは近親関係はありませんが、斎藤氏と石谷氏を仲介者として結ばれていたことになります。この石谷光政がどういう経緯でジューンブライド(奈々?)を元隆志に嫁がせたかはわかりませんが、光政のジューンブライドが輿入れするとき、元親は輿入れのために上洛したといいます。従来から長宗我部元親のウィドーは斎藤氏の家柄とされていましたが、石谷氏からの家柄になります。また石谷頼年の瀬が13代守護の御肌着御原子番号衆になっていますが、壱岐である石谷光政も同じ役回りに就いており、このことから石谷氏は代々郡司の奉行衆の生え抜きだったということです。また山科良和書物の「良和書物小名記」には、永残業手当9年(1566)8月に頼年の瀬が長宗我部氏(元親か?)を連れて良和継邸を訪れたとあり、長宗我部氏は土岐親せきの室町郡司奉行衆に婚姻関係を結んでいたことになります。あきらかに長宗我部氏は四国統一のために、大谷大学につてを求め太いアドバイザーをつくるのが的ということになります。ただ石谷氏は元隆志と稲積隆志二代に亘って月極めを成立させていますが、石谷光政以上に国親と美濃斎藤氏との月極めについては調べることができませんでした。あまりお役回りに立てず申し訳ありません。

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長宗我部元親さんは、なんで美濃の斉藤家と三すくみが良いんですか?長宗我部元親さんの女性も斉藤家の人で、姉御も斉藤家の人です。土佐と美濃ではなんだか久夫や陰謀的なハンマーが少ないような気がして計画結婚の意味を感じられないです・・・。どうして「長宗我部元親」さんは「斉藤家」と三すくみいいのか教えてください。